「主の山には備えがある」その② 信仰の父アブラハム 学び第31回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.08.11)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第31回
 聖書箇所:創世記 22章6節~14節

アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
創世記 22章8節

②礼拝(ワーシップ。)
神さまが告げられた場所に着いたとき、父アブラハムは祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛り、祭壇の上に置いた。
父アブラハムが、全焼のいけにえのための準備をしましたが、でもそれは父だけの決意ではありませんでした。
父に対するイサクの従順と、父と息子合意の上でのことでした。
これが天のお父さんとイエスさまとの関係ですね。
十字架のみわざは、全焼のいけにえによるのです。

12節。御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
私たちは「神を恐れる」と聞くと、神さまを怖がるというイメージを持ちます。
恐れ、怖い感情を持つことをイメージしてしまいます。
しかし「神を恐れる」ことは感情ではありません。
神さまとの関係・行為です。
申命記 10章2節~13節、20節~21節を見るとそのことが分かります。
「主を恐れ」「主の道に歩み」「主を愛し」「主に仕え」「主のことばに従う」「主にすがる」「主の御名により告白する」「主を賛美する」「主のみわざを見る」

主を恐れるとは、ひとことで言うと、主を礼拝する、ワーシップするということです。
すべての価値を神さまに認める、ささげるということです。
「自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」まさに、すべてをささげることです。
「自分が握りしめて、差し出せないものは何もありません。」という告白です。
神さまは、アブラハムと同様に、私たちをもワーシップへと招きます。
「私のもとへ来なさい。」「あなたのイサクをささげなさい」私たちの人生にも、握っている「子ども」があります。
それは私たちが達成したいと願っているプロジェクトやビジョン、将来への野心や当然受けるべきだと考えている権利かもしれません。
アブラハムは、イサクを心から愛していましたが、それ以上に神さまを恐れ、神さまを愛していました。
それが、アブラハムの礼拝に応答する心です。
神さまは私たちにも問いかけます。
「あなたは、それらをわたしの前にある祭壇におきますか。」と。

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