岡崎ホープチャペル発行の週報(2020.02.02)より
雅歌の学び 第19回
聖書箇所:雅歌 8章8節~14節
「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」
雅歌 8章14節
雅歌書の締めくくりは、「私の愛する方。急いで来てください。」と花婿が迎えに来てくださることを待望しているシーンで幕を閉じます。同じように聖書の結びの黙示録でも、イエスさまと花嫁である教会との呼びかけ合いで締め括られているのはとても美しく、希望に満ちています。そして花嫁のうちに宿る御霊も一緒に「来てください」と言っています。それは御霊自らの切なる願いでもあるのです。そしてその声を聞いた御子キリストは、「しかり。わたしはすぐに来る」と答え、教会は再度「アーメン。主イエスよ、来てください」と告白して幕を閉じます。
私たちの見るべき目標・ゴールはそこにあります。パウロも目標を目指して、一心に走っていると言います。何に向かって一心に走っていたのでしょうか。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
(ピリピ人への手紙 3章20節~21節)
誰でも、目標がわからず走り続けることは出来ません。しかしまだゴールが目に見えなくても、あそこにゴールがあると知っているなら走ることが出来ます。パウロもみことばの中でハッキリと告白しています。「私たちの国籍は天にあります」と。しかしパウロの告白は、死んだら天国に行けるというただのあこがれではありませんてした。パウロは、天の御国から救い主として来られるイエスさまを待ち望んでいるのです。
「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
パウロの信仰は、死んだあとの希望ではなく、生きている間に受け取る信仰です。見ている目標も、死んだあとの目標ではなく、生きている間に待ち望んでいる信仰です。これが再臨待望の信仰です。パウロは花嫁としてのアイデンティテーを持っていました。初代教会の聖徒たちがみな待ち望んでいたのは、この再臨の信仰です。「私の愛する方よ。急いでください。」「マラナタ。主よ、来てください!」私たちにも、この再臨待望の信仰が必要です。