「イエスさまの常識」ルカの黙想:学び第34回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.10.1)より
聖書箇所:ルカの福音書 15章 11節〜32節

ルカの福音書15章のテーマは、三つのたとえ話によって構成されています。

その三つのたとえとは「迷子の羊」「なくなった銀貨」、そして最も有名な「放蕩息子」のたとえです。いずれも主題は「失ったものが見つかることで起こる喜び」です。

迷子になった一匹の羊と、なくなった一枚の銀貨のたとえ。この二つのたとえ話に共通していて、イエスさまがどうしても伝えたいことは何でしょうか。そのヒントは、このたとえの中で「あれ、なんかおかしいな?」と思うところにあります。私たちの価値観と違うイエスさまの価値観が、このたとえの真理を読み解くヒントになるかもしれません。

疑問ポイントその①「見つけるまで捜す」という異常性

いなくなった1匹の羊のために羊飼いが、99匹を野に残してまで捜すという異常性です。またなくなった一枚のドラクマ銀貨のために持ち主が、執拗に掃除をしてまで「見つけるまで捜す」という異常性です。捜すなら見つかるかもという希望ではなく、見つかるまで捜すという執念というか、強いこだわりが表されています。それがイエスさまの使命だったからです。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
ルカの福音書19章10節

愛するみなさんに、どうしても伝えたいことがあります。それは、あなたがイエスさまを見つけたのではなくて、イエスさまがあなたを執拗に捜し出して見つけてくださったということです。私たちは、誰ひとり自分で神さまを見つけることはできません。これが福音であり、これが恵みです。

疑問ポイントその②「いっしょに喜んでください」と言う異常性

もうひとつの不思議は、見つかったら、友だちや近所の人たちを呼び集めて「いっしょに喜んでください」と言う異常性です。いや別に羊1匹見つかったぐらいで、銀貨の一枚が出てきたぐらいで、そんな大げさにみんなを集めてパーティーしますか?それも、当然お祝いしますよ!という前提でイエスさまは語っておられます。それがイエスさまの心だからです。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、天に喜びが湧き起こる」ということです。それを一番喜んでいるのがイエスさまであり、「わたしはそのために来た」と言うのです。あなたが見つけられ、救われると言うことは、天においては最高の喜びなのです。当然お祝いされる祝福なのです。

福音は、私たちの行いではなく、イエスさまがすべてしてくださった十字架のみわざによるものです。それなのに、そんなに喜んでくださる神さまの心こそ「父の愛」ですね。ハレルヤ!

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