「心のバプタイズ」ヨシュア記の学び 第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.5.12)より
聖書箇所:ヨシュア記 5章 1節〜12節

彼らがヨルダン川を渡ってまず最初にしたことは

ヨルダン川の渇いた川底から拾ってきた十二の石をギルガルに立てることでした。主の良くしてくださったことを忘れないように、彼らは十二の石の記念碑を造ります。私たちは日々の生活に追われ、目の前のことに振り回されると、偉大な神さまの恵みを覚えることを忘れてしまいます。結婚生活でも、信仰生活でも、その時の感動、衝撃を思い出し覚えることは有益です。聖餐式も、イエスさまは「わたしを覚えるため」そのようにしなさいと言われます。私たちはどうでしょうか?主にある感動を日々覚えていますか。
主の良くしてくださったことを、十字架の恵みを日々覚えて感謝しましょう。

二つ目にギルガルにおいてイスラエルの民がしたことは「割礼」です

これからエリコの町を勝ち取るためには、戦術的に見ると「割礼」の行為は常識的にはあり得ません。傷が治るまで兵士たちは動けません。実際に以前、ヤコブの子どもたちが強姦されたディナの復讐のため、シェケム人をだまして割礼を受けさせ、彼らがその傷で傷んでいる間に襲って滅ぼしてしまうという事件もありました。敵陣に入ったイスラエルの民全員が割礼を受けるということはとても危険なことでした。でもヨシュアは、神さまのみことばを優先します。この戦いが神さまの戦いであることを信じたからです。神さまの戦いなら、神さまとの関係が最も重要だからです。割礼は神の民としての契約のしるしでした。

主はヨシュアに告げられた。「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。」それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。今日もそうである。
ヨシュア記 5章9節

神さまに逆らって不従順でありながらも

神さまからの幸いを得ようとしてしまうのが奴隷です。それが荒野でのイスラエルの民でした。神さまは、その奴隷根性、エジプトでの奴隷としての身分、意識、恥を取り除くと言われます。ギルガルとは、神さまへの不従順による40年間の荒野での放浪の恥を取り除くものでした。神さまは、今日、その恥を転がし、完全に他の場所に移動したと言われるのです。ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、エジプトに関するすべての恥辱から自由になれたのです。私たちにも、このギルガルの体験が必要です。心の割礼、恥、奴隷(罪)からの解放です。そのために聖霊さまによる心のバプタイズを求めましょう。

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