「悲しむ者は幸いです」幸福な人生の条件 その2

岡崎ホープチャペル発行の週報(2020.02.16)より
聖書箇所:マタイの福音書 5章4節

幸いな人とは、「神の国」を持っている人のことです。神の民とされて生きている人です。イエスさまが語られたのは、御国の福音です。地上で生きる私たちが神の国の価値観をもって生きることを願っておられます。その始めが御国の福音の八福です。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」

人は、愛する家族や友人などを失うときに悲しみの感情を覚えます。また、信じていた親友に裏切られたり、人間関係がこじれてしまったときにも、悲しみの感情が込み上げてきます。心に痛みを感じるとき、悲しみが私たちの心をおおいます。多くの悲しみは不幸であり、私たちはそれを避けたいと願います。いやストレートに言えば、悲しみがないことが幸福だと考えます。しかしイエスさまは私たちの思いとは全く反対のことを言われます。

幸福な人生の第二の条件は、「悲しみを知る」ということです。

ここでいう「悲しむ者」「悲しみを知る」とは、どういうことでしょうか。幸福な者のステップには意味があると信じます。その順序は新しく造り変えられるステップです。「霊において貧しい者」であることを悟った者は、はじめて「神さまの深い悲しみを理解する者」となります。人が経験する悲しみ以前に、神さまが悲しんでおられることを知る者となるのです。人の「悲しみ」を理解できても、神さまの「悲しみ」を理解できる者はなかなかいません。その神さまの悲しみの原因はなんでしょうか。それは私たちの内に住む罪にあります。

聖書では、悲しみには二種類あると書かれています。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(コリント人への手紙第二 7章10節)
パウロはこの箇所で「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」を区別しています。パウロはここで、罪に対して悲しむことについて言及してきます。世の与える悲しみは、罪責感により絶望と死をもたらします。そこには希望がありません。自分を責め、自分を傷つけることによって解決しようとします。それは同時に、その責任を人に押し付ける形で表れてきます。

しかし神さまのみこころに添った悲しみは、私たちを生かします。救いを与えます。神さまのみこころに沿った悲しみは、私たちを神さまの御前に出て行くようにし、「悔いのない悔い改め」に導きます。自分で自分を罰することをせず、自分の罪を神さまの法廷に持っていき、神さまの赦しを受け取りました。これが重要なのです。悔い改めには、神さまの赦しを受け取ることも含まれています!

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする