「ベテスダでのいやし①」七つのしるし 学び第3回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.11.21)より
聖書箇所:ヨハネの福音書 5章1節~9節

「その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」
ヨハネの福音書5章3節

この第三のしるしのシーンは、エルサレムです。そのエルサレムの羊の門の近くに(羊の門は、いけにえの羊をささげるために羊を連れて通る門。)、ヘブル語で「ベテスダ」と呼ばれる池がありました。「あわれみの家」という意味です。ベテスダには大ぜいの病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人(やせ衰えた者)が伏せっていました。この人たちの日課は、ただ水が動くのをじっと待っている生活です。主の使いが下りてきて水をかき回し、池の水が動いたら真っ先に池の中に入れば癒されるという言い伝えを信じて、いつも水面をぼっーと眺めているのです。そのようなベテスダの池にいる人々を通して、イエスさまが伝えたい4つの人々の状態を霊的意味合いを含めて見てみましょう。

1「病人」とは、

その原因がなんであれ、自分のしたいことができない状態です。神さまの前にこれが正しいと分かっていても、そうすることができない姿。
取税人や罪人との食事。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」
マタイの福音書9章12節

2「目の見えない人」とは、

見えるべきものが見えないことです。真理の光を知らない、それゆえに見ることができない状態です。闇の中にいる状態、そして自分が闇の中にいることさえもわからない状態です。イエスさまは、パリサイ人に対して盲人と。

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」
マタイの福音書 15章14節

3「足の不自由な人」とは、

立とうと決心して何度もチャレンジするのですが、いつも足が思うようにいかず、挫折や失敗を繰り返してしまう人々の状態です。

自分で自分をどうすることも出来ない現実。美しの門にいた生まれつき足のなえの人。

4「からだに麻痺のある人」とは、

これは生きる力、勇気といったものが欠如している状態といえます。生きる意欲に欠ける「やせ衰えた者」と言うことです。四人の人に担がれてきた中風の人。

そしてそれらの人々の姿は、私たちの姿でもあるのです。イエスさまは、そのような状態にある私たち一人ひとりに目を留められ、声をかけてくださるのです。ハレルヤ!

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