「生きること、死ぬこと」完成を目指して:学び第3回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.9.18)より
聖書箇所:ピリピ人への手紙 1章12節〜26節

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」
ピリピ人への手紙 1章21節

パウロは今、自分の裁判を待ってローマの獄中にいます。

彼にとっては生きるのか死ぬのかは、その裁判の判決次第で決まります。しかしパウロは、その判決がどちらであっても「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と言うのです。パウロにとって、生きるとはどういうことなのでしょうか。

彼にとって「生きる」という意味を見出したのは、間違いなくイエスさまとの出会いから始まります。なぜなら、あの日、ダマスコへ向かう途上でパウロはイエスさまと出会い、新しく生まれ変わり、人生を全く初めからやり直したようなものだったからです。「私にとって生きることはキリスト」というのは、その新しくされた時の継続であり、イエスさまと出会った日、人生を再スタートしたあの日の連続がパウロにとっての「生きる」なのです。

イエスさまと出会ったその日以来、

イエスさまと共に生きなかった日は一日たりともなかったし、これからもないという告白です。彼の日記(ダイアリー)は、毎日がイエスさまとの親しい関係の更新なのです。パウロにとって生きるとは、すべてが新しくされ、目が開かれ、光が差し込んできたあの喜びの中で生きること、それがパウロの生きる目的、動機のすべてなのです。

だからパウロにとっては、死ぬことも「恐れ」ではなく「益」なのです。なぜなら、彼の人生が導かれていく「終わり」は、永遠にイエスさまと生きることだからです。イエスさまと出会ったことが生きるすべてなら、永遠にイエスさまと過ごす御国は、パウロにとって最高の益なのです。

ゆえにパウロは、この世を去って(死んで)キリストとともにいることを願っています。

生きるより、そのほうがはるかにまさっていると言うのです。だからと言ってパウロは死ぬことを選ぶわけではありませんでした。それは、地上に留まり続けることがピリピの教会だけではなく、すべての聖徒たちの霊的成長のために有益であることを知っていたからです。神さまが私を生かしてくれるなら、私にはまだやるべきことがある。。。それを選択をするのは自分の願望ではなく、神さまのみこころによることだと受け入れているのです。

パウロは、イエスさまを救い主として信じ受け入れた瞬間から、死と罪の法則から解放され、いのちと御霊の法則の中で生きる者とされたのです!ハレルヤ。私たちも同じこのいのちの祝福の中に生かされているのです。I’m free !もう私を縛るものはない!そのように変えられた人生を喜びましょう。

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