「主の時に叫ぶ!」ヨシュア記の学び 第10回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.6.9)より
聖書箇所:ヨシュア記 6章 1節〜11節

この方法はあっているのか

「あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。」3節

さぁ〜、神さまは巨大な城壁を前に「よし行くぞ!」と少し熱くなっているヨシュアたちに、何もしないでただ町の周囲を一日1回周りなさいと言われます。2日目も、3日目も、、、6日目まで、ただエリコの町の周りを一周するのです。来る日も、来る日も主のみことばに従順して、言われた通りに周るのです。いつ城壁の上から攻撃が来るかもしれないのに、危険を承知の上で従います。しかし6日経っても、エリコの城壁には何の変化も見られません。そこで私たちは思います。「この方法はあっているのか。こんな方法で達成できるはずがない…」と。私たちは、手応えが欲しいのです。何か動き出している変化が見たいのです。特にリーダーになるとよく分かります。民を導く手前、みんなの前で何か手応えが欲しくなるのです。2日目、3日目と、少しでも城壁の小石がポロポロと落ちてきたり、ひびが入ってきたりしたら「良し!これはいける!」と、手応えを感じます。しかし、変化が何もないとすぐ違う方法を試したくなるものです。

それだけではありません。このエリコの町を周る時、出していい音は唯一、祭司たちの角笛の音だけでした。イスラエルの民は、ただ沈黙して歩き続けるのです。

「七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。」4節。

あなたの城壁は崩されます

賛美しながら歩くのでもなく、お互いを励ますのでもなく、ただ黙って角笛の音を聞くのです。私たちにもそのようなシーズンを通ることがあります。目立つことや、大胆なことをするわけでもなく、ただ口を開かず黙々と神さまの計画を黙想して過ごす日々があります。本当にこの方法であっているのか、自分の決断は間違っていないかと葛藤する時、みなさんを祝福します。声を出して語れないこと、語る機会がないことを残念に思う必要はありません。そのような時は、むしろ口を開くことが不従順の入り口になることがあります。私たちは、主の時に口を開けばいいのです。

「「ヨシュアは民に命じた。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」10節

愛するみなさん、第七日目は必ずやってきます。そしてこの日は今までと同じにしていてはいけません。この日には、神さまは「ときの声をあげよ!喜びの歓喜の声をあげよ!」と言われます。今まで沈黙を守っていなければならなかったのに、突然大声を出すときが来るのです。主の時が来ると、自分自身の中にある強固な城壁が崩れ去ります。世界を変えることや、他人を変えることはできないかもしれませんが、自分自身を変えることはできます。聖霊さまを歓迎しましょう。必ず、あなたの城壁は崩されます。ハレルヤ!

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