「平和をつくる者は幸いです(中編)」幸福な人生の条件 その7-2

岡崎ホープチャペル発行の週報(2020.03.29)より
聖書箇所:マタイの福音書 5章9節

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」

「欠けがない状態、満たされている状態」
聖書で言われる「平和」を簡潔に言いあらわすなら一点目は、「欠けがない状態、満たされている状態」であります。今日でも「シャローム」ということばは、イスラエルの人々の挨拶の言葉として使われていますし、新約聖書の手紙などを読んでいても「平和があるように、平安があるように」と挨拶のたびに語られていることに気づきます。それは「戦いがないように」「悪いことがありませんように」ということよりももっと積極的に、「あらゆる良いことにおいて満たされますように」と言う意味を持った祝福の言葉です。

しかもそれは、神さまによって「満たされるように」という願いです。礼拝の最後に祝福の祈りというものがあります。この礼拝から送り出され、それぞれの場所で一週間の歩みを始めるために祝福をもって送り出すという意味があります。そのアロンの祈りの中に「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」という言葉があります。ここでもやはりシャロームが使われています。主があなたに御顔を向けるとき、主の御顔の前をあなたが歩くとき、それが平安であり、平和であるというのです。争いの中にあっても、問題の中にあっても変わることのない「平安」、それが聖書の語る平和です。

この平和は「神の義」から始まります。しばしば、何でもかんでも戦わないことが平和であるという偽りの教えが語られます。しかしイエスさまは、自分は平和ではなく、剣をもたらしに来たのだと言われました。それは平和の否定ではなく、むしろ正義があってこその平和であり、 平和を壊す罪の分子を潰さなければ平和は来ないということです。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネの福音書14章27節

イエスさまが言われる「平安」は、この世が与えるものとは違います。この世の与える平安は、状況や立場、富や人との関係によってすぐに変わります。イエスさまが言う「わたしの平安」は、主の御顔の前に大胆に出ていける者のことです。そこに平和があるからです。それがイエスさまによって完成された平和です。イエスさまのもとに行くとき、私たちは「欠けのない状態、満たされている状態」になることができるのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする